事務官に告げられて、それでもやっぱり信じられないでいたけれど、姿を見せたのは連絡通り、成歩堂龍一だった。
 変なニット帽子とパーカーにズボンの出で立ちに変化はない。無精髭の濃さまで変わらないのは、まだらになるよう意図的に剃っているんだろうか。
 何にしたところで、彼が目の前にいる事が響也には信じられなかった。
 書類を握りしめたまま、突っ立っていたようだ。『どうして?』そう心の中で呟いたつもりだったけれど、声になっていたらしく、ああと嗤う。
「今夜は、案件がひとつ片付いたら後は予定がない。そうメールしてくれたのは君だろ?」
「だ、だって…これまでも何回かしたけど、返事をくれたことが無かったじゃないか…。」
 嫌味な言い方になってしまっただろうかと、もう遅かったけど手で口に蓋をした。様子を伺い見ていたけれど、もの珍しそうに部屋全体に視線を回して成歩堂は言葉を返さない。
 それでもジッと見つめていれば、なにやら納得した様子で顔を向けて来た。目が合えば漆黒の瞳を弧に細める。にやりと上がる口端が酷く挑発的で、それでいてはっとするほどの色香を感じさせた。
 指先を少し動かすだけでも、艶を帯びるなんて、ずるいと響也は思う。自分がどんなに頑張っても、太刀打ち出来る気がしない。

「うん。今夜はね、僕も暇だったから逢いに来た。」
 今まで返事をくれなかった事を詫びるでもなく、それだけ言葉にする。
 絶対納得いかないのに、彼が逢いに来たって事実だけで心臓が破裂しそうな自分は馬鹿じゃないかと思う。
 凄く嬉しいのに気持ちは不安定で、法廷に臨む時よりもギグが始まる前よりも緊張してる。それでいて歓喜の叫びを上げたい位だ。
 なのに、告げなければならない事実の為に頭を垂れる。色々な意味で、僕は確かに馬鹿だ。

「でも、急な案件が入っちゃったからまだ終わってないんだ。その…連絡しなくて…。」
「そう。」
 しかし、成歩堂はスタスタと前を横切っていく。辿り着いたのは、来客用のソファー。腰を落として、微かに眉を潜めたのが見えた。
「成歩堂さん?」
「言っただろ、僕はこの後暇なんだ。君の仕事が終わるまで待たせてもらうよ。」
 両手をポケットにつっこんだまま、器用に転がる。羊の数を数える間もないほどに素早く、彼からは寝息が聞こえて来た。

「…信じらんない…。」


欲しいくせに、いざ遣ると言われて手を引込める様な男では、二度と機会は掴めない。


 響也のぼやきが聞こえて来たが、閉じた瞼を引き上げるつもりは成歩堂にはなかった。
 気を取り直して椅子に座り直したらしい音が成歩堂の耳に届き、本を捲る紙の音がし出して、ようやく、成歩堂はポケットの中で握っていた勾玉から手を離した。
 ソファーの背もたれに背中を押し付け、本格的に眠るべく丸くなる。
 御剣の部屋よりは固いマットは、やっぱり気に入らなかったが、牙琉検事はまだまだ下っ端だ。文句をつけるのも気の毒というものだろうと諦めた。 
 気分は悪くない。
 意地が悪かったかと思いつつ、現れる事のなかったサイコロックに口端が上がるのを抑えきれない。
 少しばかり人生に躓き、年を重ねたせいもあって底意地が悪くなっていたのは確かに認める。響也が自分を好きだと告げた言葉も本気で信じてはいなかった。
 だから、何度かのメールを無視した後で、前触れもなく彼の前に現れる様な真似をしてみせたのだ。
 自分を貶めるような奸計があるのなら、顕著な反応が出てくるだろうと考えていたし、その時にはこの生意気な検事を完膚無きまでに叩きのめしてやろうと思っていた。
 けれど、自分を見た響也の顔が、驚愕していたものの笑顔だった事が成歩堂を驚かせ、困った表情をされてしまって何故だか成歩堂が困ってしまった。
 
…ふうん。本気で好きなんだなぁ。

 何処か他人事のように思う。
薄目を開けて伺えば、今は仕事に集中しているようだ。
 まだ未成年であることを裏付けるように幼さの残る顔立ちだが、その瞳は真剣そのもので、そんなところは普通に好ましいと成歩堂は思う。
 そして、検事であると同時に芸能人である彼の容姿は、やはり並み以上に整っている。碧い瞳に金色の髪だとか、出来過ぎの部類だろう。相手に(男にしろ、女にしろ)不自由はしなさそうなのに、どうして僕がいいのかなぁ。
 最後にはいきつく考えに、やっぱり辿りついた事に気がつくと成歩堂は大きく溜息をついて、もう一度瞼を閉じた。
 そんな事、響也自身しかわからない事だ。どんな答えが返ってくれば、自分が納得するかなんて思いつきもしない。わかっている事は、響也が女の子と腕を組んで歩いている姿の方が、自分と腕を組んで歩いているよりも遙かに似合うし、普通だろうと言う事だけだ。
 寝る前にそんな事を考えていたせいか、夢を見た。
 ちぃちゃんばりに可愛い顔立ちで、千尋さんみたいなナイスバディの女の子と弟くんがイチャついている夢だ。
 …腹立つ。男として普通に胸糞が悪い。

「成歩堂さん、成歩堂さん!」

 肩を掴まれ、ゆさゆさと揺さぶられる。頭がガクンガクンと振り回されて頭痛がした。唸りながら目を開ければ、響也が覗き込んでいる。
 腰に両腕を当てて、呆れた表情で膝を折っていた。そう言えば、みぬきも怒った時にこんな格好をする。子供の態度は皆同じって事かと妙な感心をしていれば、寝ぼけていると思ったのか、響也は声を低めた。
「…なんで、こんな短時間で爆睡出来るのさ。」
「ん? あ…お早う。」 
 焦点の合わない目を擦り、片手で支えて身体を起こす。やっぱり、ソファーが固かったせいで身体が痛い。首を回すと、ボキボキと景気の良い音がした。
 そうして、机の上が綺麗に片付いているのに気付き、視線を戻せば響也の頬が紅潮する。
「…終わったよ。」
「随分早かったんだね。」
 ついでに見た時計の針は思っていた程回ってもおらず、不覚にもにやついた。張り切って頑張ったのだ、僕の為に。
 可愛いなぁ、全く。
 言いたいことは色々とあるのだろうけれど、響也は口をへにしたまま、沈黙を保った。不服そうな表情に、ああと思う。頑張った子には、やっぱご褒美だよね。

「じゃあ、食事にでも行こうか。」


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